東ティモール、投資誘致を急ぐ、ASEAN加盟を機に
東ティモール、投資誘致を急ぐ、ASEAN加盟を機に
東南アジア株式新聞 2025年10月22日
今週末のASEANサミット(首脳会議)で、東ティモールの加盟が決まる見通しだ。
これまでの10カ国時代にはASEAN10と呼称されてきたが、ASEAN11となる。
東南アジアでは経済発展が遅れる東ティモール(Timor-Leste)。
ラモスホルタ大統領とグスマン首相は積極的にメディアに会い、発言している。
ASEAN加盟を機に、投資誘致を急ぎたいところだ。
CNAの10月22日の記事:
「より魅力的な投資先」:東ティモールはASEAN加盟で貿易と雇用の拡大を目指す
ディリ(東ティモール):東ティモールは、今週後半にクアラルンプールで開催される東南アジア諸国連合
(ASEAN)首脳会議に出席するため、ASEANへの正式加盟に向けて準備を進めており、
歴史を刻む態勢が整っている。
24年間のインドネシア占領を経て2002年に独立した、この地域で最も若い国である東ティモールは、
ASEANの11番目の加盟国となる予定だ。
この記事では、グスマン首相に取材し、以下のような発言を得た。
東ティモールは、ASEANの6億人を超える市場にアクセスできるようになり、
地域のサプライチェーンと結びつくことで、魅力的な市場になる。
東ティモール商工会議所は、ASEAN市場の手続きや規制を理解できるよう、
研修や能力開発プログラムを通じて会員の育成に取り組んできた。
東ティモールは貿易を支援するためのインフラにも多額の投資を行っている。
その一例が、2022年に運用開始されたティバール湾港で、同国最大のインフラプロジェクトだ。
東ティモール初の官民連携開発であり、投資額は4億9,000万米ドル。最新の取扱設備を備え、
年間最大100万個のコンテナを取扱う能力を備えてた近代的コンテナ港だ。
その一方で、ティモール島内でインドネシアと国境を接するこの島国は、
依然として不平等、栄養失調、失業に苦しんでいる。
人口・経済規模が小さく、発展もまだ途上で、ASEANの市場統合の足を引っ張る可能性もある。
そんな東ティモールにも、ASEAN内で自慢できることがある。
ホセ・ラモスホルタ大統領は、ディリは2029年に初のASEAN首脳会議を開催する準備ができており、
ASEANにとって「負担」にはならないと誓った。
「独立以来、大統領、政府、そして議会の5年ごとの選挙を一度も欠席したことはありません」と
ラモスホルタ大統領は付け加えた。
「選挙結果は常に受け入れられ、争われることなく、非常に多様な政治体制を生み出しています。
これは民主主義の強さを示しています。」
民主主義の指標の1つ、The Economist Democracy Index 2024年版によると、東ティモールは46位だ。
この順位は、ASEANの中では、マレーシアの44位に次ぐ。
その他の国は、インドネシアが59位、タイが63位、シンガポールが68位、ミャンマーが166位、
ベトナムが133位、カンボジアが123位、などとなっている。
東南アジアには、公正な選挙が行われるかが問われている軍政ミャンマーのような国がある。
選挙が継続的に行われている国でも、不正が行われていたり、言論の自由が制限されていたりする。
日本経済新聞は今月、大統領と首相それぞれのインタビュー記事を掲載した。
日本経済新聞の10月7日の記事:
東ティモール大統領「地域の貿易拠点に」 ASEAN加盟で日本にも商機 - 日本経済新聞
東ティモールのラモスホルタ大統領が日本経済新聞のインタビューに答えた。
東南アジア諸国連合(ASEAN)への正式加盟を機に、地域の貿易拠点として経済発展をめざす考えを示した。
ポルトガル語圏のつながりを生かし、アフリカ諸国などとASEANの経済連携を後押しする意向も表明した。
ラモスホルタ氏の発言主旨:
ASEANは7億人の人口を抱え、域内総生産(GDP)は合計で数兆ドルにも及ぶ巨大な経済圏だ。
投資家を誘致し産業開発につなげられる。
インドネシアやオーストラリア、パプアニューギニアの中間の立地を活かし、倉庫など
インフラを整備し、東南アジア地域の貿易拠点として発展する潜在力がある。
有望な産業として観光や農業、海運業など。ASEANの中で最も低い税金と人件費に加え、
インセンティブを提供し産業を育てる。
東ティモールは「ポルトガル語圏諸国共同体(CPLP)」に加盟し、
ポルトガルやブラジル、アフリカ諸国と関係が深い。
ASEANとそれらの国との架け橋の役割を担える。
日本経済新聞の10月21日の記事:
東ティモール首相「企業育成へ開発銀設立」 大卒の就職率3割止まり - 日本経済新聞
東ティモールのグスマン首相は日本経済新聞の取材に対し「企業の成長を支援するため国立の開発銀行を
整備する」と明らかにした。
同国は10月下旬に東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟を控えるが、産業育成が遅れている。
大学卒業でも就職できる学生はわずかで、若者の不満が抗議デモへと発展していた。
グスマン氏は
まずは中小企業を支援する必要がある。
開発銀行は来年にも設立し、民間部門の金融アクセスを向上させることで産業育成につなげる。
若者が立ち上げたスタートアップ、農家や漁師などが主な対象だ。
有望産業は観光だ。世界で最も豊かな生物多様性を誇る。人材育成などを進めるとともに、
観光客の誘致に向けて地域社会の連携を強めていく。
日本の外務省の「東ティモール民主共和国(The Democratic Republic of Timor-Leste)基礎データ」
には、以下のような情報が載っている。
面積:約1万4,900平方キロメートル
(首都4都県(東京、千葉、埼玉、神奈川)の合計面積とほぼ同じ大きさ)
人口:約139万人(2023年)
民族:メラネシア系とパプア系が大部分を占める。
その他マレー系、中華系等、ポルトガル系を主体とする欧州系及びその混血等。
言語:公用語は、テトゥン語及びポルトガル語。実用語に、インドネシア語及び英語。
その他30以上の地方言語が使用されている。
宗教:キリスト教99.1%(大半がカトリック)、イスラム教0.79%
主要産業:農業が主要な産業(多くは零細農業。コメ、トウモロコシ、キャッサバやその他イモ類、
ココナッツ等を栽培)。輸出⽤作物としては特にコーヒーの栽培に⼒を注いでいる。
⽯油・天然ガスの開発が貴重な国家財源として進められている。
また、近年海外で労働する東ティモール⼈⼝が増加したことにより、
海外送⾦がGDPの8.7%に相当する1億7100万⽶ドルに達した。
(出典︓東ティモール財務省2022年報告書に引⽤の世界銀⾏推計)
GDP:20億2,000万米ドル(2024年)(出典︓IMF)
以下、Google Gemini に東ティモールの歴史をまとめてもらった。
東ティモールの歴史は、主にポルトガルによる植民地支配、インドネシアによる占領、そして独立
という大きな段階を経てきました。
以下に主な流れをまとめます。
1. ポルトガル植民地時代(16世紀頃〜1975年)
16世紀: ポルトガルがティモール島に到達し、植民地化を進めます。
ティモール島は、東側がポルトガル領、西側がオランダ領として分割されました
(西ティモールは後にインドネシアの一部となります)。
第二次世界大戦中 (1942年〜1945年): 日本軍が一時的にティモール全島を占領しました。
戦後: 再びポルトガルの支配が回復しました。
1974年: ポルトガル本国で「カーネーション革命」が起こり、ポルトガルが植民地の維持を
断念したことで、東ティモールでも独立の動きが活発化しました。
独立を目指す政党(フレテリンなど)と、インドネシアとの統合を主張する政党の間で対立が
生じました。
2. インドネシアによる占領時代(1975年〜1999年)
1975年11月28日: 独立派のフレテリンが一方的に東ティモールの独立を宣言しました。
1975年12月: インドネシア軍が東ティモールに侵攻し、制圧。
1976年: インドネシアは東ティモールを自国の第27番目の州として一方的に併合を宣言
しました。国際社会の多くはこの併合を認めませんでした。
抵抗運動: この間、東ティモールでは独立を求める激しい抵抗運動(ゲリラ戦など)が続き
ました。インドネシアによる支配下では、多くの犠モール人が犠牲になったとされています。
1991年: 首都ディリで発生したデモ隊への発砲事件(サンタクルス事件)が海外メディアに
よって報じられ、国際的に東ティモールの状況への関心が高まりました。
1996年: 東ティモールの独立運動指導者2名(ジョゼ・ラモスホルタとカルロス・ベロ司教)
がノーベル平和賞を受賞しました。
3. 独立へ(1999年〜2002年)
1998年: インドネシアのスハルト独裁体制が崩壊し、東ティモール独立への転機が訪れました。
1999年8月30日: 国連の主導のもと、独立の是非を問う住民投票が実施されました。
その結果、約78.5%が独立を支持しました。
住民投票後: 独立反対派(インドネシア軍が支援した武装民兵を含む)による大規模な暴力と
破壊活動が発生し、情勢が急激に悪化しました。
1999年9月: 国連安全保障理事会の決議に基づき、多国籍軍(INTERFET)が派遣され、
治安が回復しました。
国連暫定統治: その後、国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)による暫定統治のもと、
独立に向けた国づくりが進められました。
2002年5月20日: 東ティモールは東ティモール民主共和国として、国際法上の独立を回復
しました(21世紀最初の独立国)。
4. 独立後
独立後も、政情不安や貧困、インフラ整備などの課題に直面し、2006年には軍内の対立を
発端とした暴動が発生するなど、混乱も経験しました。
国際連合は引き続き、平和維持活動(PKO)や国づくり支援を行いました。
日本も自衛隊のPKO派遣や様々な支援を行っています。
現在、政治的安定は回復傾向にあり、コーヒーや石油・天然ガスなどの資源開発を進めながら、
国づくりを続けています。
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